市川秀行「狭山池龍神の考察」大阪府立狭山池博物館研究報告第3巻 P35
龍神淵祭具出土状況(上)
龍神淵遺物実測図(下)
龍神淵平断面図
龍神淵航空写真(上)
龍神淵出土状況(下左)
祭具出土状況(下右)
享和元(1801)年に刊行された『河内国名所図会』には西堤に祠が書かれている。「西除普請並竜神社之訳」には「尤善女竜王社義者往古より西堤ニ小祠在来之処」とあり、これは龍神祠であると思われる。ここで問題となるのはこの祠がいつ建立されたかである。享保年間末期に作成された「狭山池惣絵図」は狭山池周辺の様子を詳細に描く絵図であり、享保15(1730)年4月に狭山藩下屋敷内に勧請された狭山堤神社なども記載されている。西堤に龍神が祭祀されておれば狭山池と深い関係をもつものだけにこの絵図には当然記載されるはずであるが、その描写はない。したがって西堤に龍神が最初に祭祀されたのは、享保以後、享和以前のことと思われる。
市川秀行「狭山池龍神の考察」大阪府立狭山池博物館研究報告第3巻 P40
以上のように嘉永6年にその場所を移動した龍神は、安政5・6年の西除を中心とする狭山池の大改修に際して再びその場所を移動している。狭山池のすぐ西側にある池之原村の庄屋の記録である「中林家日記」には西除改修と龍神について次のように記されている。「安政五午年 狭山池西除ヶ十月中旬より取懸り翌春四月迄懸り、凡銀高弐百貫目斗入用懸り申候、右普請ニ付、池之中江竜神淵を掘、石垣築、御社建、鳥居立、誠ニ結構相成、西之堤ニ桜もみし松杉之木植並へ申候」この時に池中に石垣を築いて島を作り、淵を掘ったことがうかがえる。
市川秀行「狭山池龍神の考察」大阪府立狭山池博物館研究報告第3巻 P41
龍神祠のような小祠は明治以後、政府の方針もあって他社に合祀されたものが多い。延喜式神明帳にその名が記載された古社である狭山堤神社でさえ、明治42(1909)年に狭山神社の境内に合祀されている。しかしながら龍神社については水下村からの強い信仰があったためであろうか、合祀などの措置がとられることなく、今日も独立した神社として祭祀が行われている。現在ではかつてのようなにぎやかな祭礼としての性格は失われているものの、毎年新暦の6月1日には狭山池土地改良区を中心とした関係者があつまって、龍神祭が行われている。
市川秀行「狭山池龍神の考察」大阪府立狭山池博物館研究報告第3巻 P46
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