地図を頼りに歩いて探したのですが、特にそれらしい看板が見当たらず、見つけるのに苦労しました。
2012年11月24日土曜日
阿弥陀寺
昨日の文献調査を踏まえ、安政5年の狭山池改修の際、雌雄の龍神ニ柱を勧請した本浄和尚が住職をしていたという阿弥村阿弥陀寺を探しました。
地図を見る限り、狭山池の水下流域で「阿弥」という地名は、堺市美原区阿弥だけのようなので、恐らくこの地区の阿弥陀寺がそれだと思われます。
想像していた以上に小さなお寺で、ご住職一家のものと思われる家が寺の横にありました。
また、境内には、「ダキニ天大明神」の御社もありましたが、肝心の龍神を祀っていると思われる御社はありませんでした。
まあ、明治以前は習合・合祀が当たり前でしたから、元々は龍神社だったのが、稲荷神の流行後に龍神社へダキニ天が合祀された可能性はあるかと。
ちなみに、阿弥陀寺へ向かう途中には、狭山池から続くと思われる水路があり、水門に小さな祠があるものもありました。
阿弥陀寺
地図を見る限り、狭山池の水下流域で「阿弥」という地名は、堺市美原区阿弥だけのようなので、恐らくこの地区の阿弥陀寺がそれだと思われます。
想像していた以上に小さなお寺で、ご住職一家のものと思われる家が寺の横にありました。
また、境内には、「ダキニ天大明神」の御社もありましたが、肝心の龍神を祀っていると思われる御社はありませんでした。
境内のダキニ天大明神社
まあ、明治以前は習合・合祀が当たり前でしたから、元々は龍神社だったのが、稲荷神の流行後に龍神社へダキニ天が合祀された可能性はあるかと。
ちなみに、阿弥陀寺へ向かう途中には、狭山池から続くと思われる水路があり、水門に小さな祠があるものもありました。
水門と祠
中を覗くと地蔵尊らしき石像が祀られてましたが、これも元々は龍神に縁のある祠だったのかもしれません。
ラベル:
寺院
場所:
日本, 大阪府堺市美原区阿弥54
2012年11月23日金曜日
「狭山池龍淵江奉納願文控」
「狭山池 資料編」に収録されている「狭山池龍渕江奉納願文控」によると、
安政5年(1858)11月3日に河内国丹南郡狭山池内に、
如意宝大竜王 池中渕に鎮座奉。
善女大竜王 池中小山石台之上に鎮座奉。
謹上再拝狭山池内竜宮江敬白奉。
其趣意は今般築立る所之西除ケ所修補成就之上は永久破損之害之無き為、
守護神雌雄竜王ニ神江祈念奉る。
水下村々 新に池中江石壇を構、又渕を堀、龍宮社勧請奉、幣白を奉、池安全・水下五穀成就・旱魃之愁無、万民豊饒願処也。
即今月今日阿弥村阿弥陀寺現住本浄大和尚を祈念之師として此龍渕江御所持之袈裟一具、其外収物水底江被鎮、然上者此渕万代不汚干水之患之無、自今渕底永世拝見する事能ず、全神威之寄所寄也妙也。
等と記されている。
2012年11月17日土曜日
「龍の棲む日本」
<日本>の龍は、本格的には平安時代にその姿を現した。そのイメージは、陰陽道の龍や佛教の龍王と<日本>の神の蛇身とが複雑微妙に絡み合っており、さまざまな姿をとって現われる。そして、龍・龍王・龍神は主として水神として、風雨を起こす存在として、中世<日本>のなかに深く、広く根づいていった。中世の人々は、龍・龍王・龍神に対して雨乞いをし、あるいは大雨が止むようにと必死の祈りを捧げたのであった。
それだけではない。龍はしばしば地震を起こす存在であり、また、龍は中世<日本>の神々の姿であり、蒙古襲来や東夷の蜂起などの危機に際しては、龍の姿をした神々が<国土>を守護するために血みどろになって戦った。龍は、中世<日本>の<国土>や<大地>と不可分な存在となったのである。
中世<日本>の<国土>を構成する大地のうちで、聖地とされるような山々や湖海などは、それ自体が龍体であったり、あるいはそこに龍が棲息していた。また、それらの山々や湖海を繋ぐ巨大な穴道が地下世界を走っていた。<日本>全国の<大地>に、暗黒の穴をあけている龍穴や人穴などと呼ばれる洞穴・洞窟はそうした巨大な穴道へと繋がっていた。つまり、それらの穴道は、琵琶湖・諏訪湖などの湖水や瀬戸内海へと繋がっており、神仏の化現である龍が、そこを行き来していたのである。
黒田日出男「龍の棲む日本」岩波新書 P168
2012年11月14日水曜日
さやりん
「さやりん」とは、大阪狭山市のマスコットキャラクター。
公式ホームページのプロフィールによると、
名前:さやりん
年齢;わからない
性別:わからない
お家:狭山池の龍神(りゅうじん)のほこら
趣味:お花見・池の掃除(そうじ)
仕事:日本最古(さいこ)の人工(じんこう)のため池である狭山池の自然(しぜん)と安全(あんぜん)を守っていたが、発見(はっけん)されたことをきっかけに今は狭山や狭山池の宣伝(せんでん)にも力を入れている。
夢:立派な龍神(りゅうじん)になって、狭山池を守る。
好きなもの:狭山名物の大野(おおの)ぶどう
嫌いなこと:狭山池をよごす人
家族:お父さんは狭山池の龍神(りゅうじん)。お母さんは桜の妖精(ようせい)。
とのこと。
個人的に気になるのは、狭山池の龍神は雌雄二柱の夫婦とされていること。
上記の設定に従うならば、さやりんは正妻である雌の龍神との子ではなく、妾である桜の妖精との混血児ということになる。
しかし、マスコットキャラクターとして、そういう複雑な家庭環境というのは問題ないのだろうか?
公式ホームページのプロフィールによると、
名前:さやりん
年齢;わからない
性別:わからない
お家:狭山池の龍神(りゅうじん)のほこら
趣味:お花見・池の掃除(そうじ)
仕事:日本最古(さいこ)の人工(じんこう)のため池である狭山池の自然(しぜん)と安全(あんぜん)を守っていたが、発見(はっけん)されたことをきっかけに今は狭山や狭山池の宣伝(せんでん)にも力を入れている。
夢:立派な龍神(りゅうじん)になって、狭山池を守る。
好きなもの:狭山名物の大野(おおの)ぶどう
嫌いなこと:狭山池をよごす人
家族:お父さんは狭山池の龍神(りゅうじん)。お母さんは桜の妖精(ようせい)。
とのこと。
個人的に気になるのは、狭山池の龍神は雌雄二柱の夫婦とされていること。
上記の設定に従うならば、さやりんは正妻である雌の龍神との子ではなく、妾である桜の妖精との混血児ということになる。
しかし、マスコットキャラクターとして、そういう複雑な家庭環境というのは問題ないのだろうか?
2012年11月12日月曜日
水分神
水分神 みくまりのかみ
流水の分配を司る神。「くまり」は「配り」を意味し、水源地や分水点にまつられることが多い。『古事記』には、ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメ両神の子として、天之水分神・国之水分神が登場する。この両神を祭神とする神社は各地にみられるが、とくに奈良県の葛木水分神社、吉野水分神社、宇太水分神社、都祁神社、大阪府の建水分神社、天水分豊浦命神社などが有名である。水を分かち与える神格として、雨乞いの対象となることもあった。また、のちにミクマリがミコモリになまり、御子守と解されるようになり、子授け・安産の神、子供の守護神として信仰されるようにもなった。さらに、水を司ることから田の神と結びついたり、山中の水源地に祀られる場合には山の神と結びつくこともある。
國學院大學日本文化研究所「〔縮刷版〕神道辞典」弘文堂 P93
流水の分配を司る神。「くまり」は「配り」を意味し、水源地や分水点にまつられることが多い。『古事記』には、ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメ両神の子として、天之水分神・国之水分神が登場する。この両神を祭神とする神社は各地にみられるが、とくに奈良県の葛木水分神社、吉野水分神社、宇太水分神社、都祁神社、大阪府の建水分神社、天水分豊浦命神社などが有名である。水を分かち与える神格として、雨乞いの対象となることもあった。また、のちにミクマリがミコモリになまり、御子守と解されるようになり、子授け・安産の神、子供の守護神として信仰されるようにもなった。さらに、水を司ることから田の神と結びついたり、山中の水源地に祀られる場合には山の神と結びつくこともある。
(岩井 洋)
國學院大學日本文化研究所「〔縮刷版〕神道辞典」弘文堂 P93
竜神信仰
竜神信仰 りゅうじんしんこう
また、漁民の間では、金物を海に落とすことがタブーとなっているが、これは金物が蛇の魔力を避けるという信仰から、逆に蛇を怒らせる行為を慎むという意味であると考えられ、蛇神=竜神=海神という図式が背景にあるといえる。この海神と人間との交渉というモティーフは、「浦島太郎」や「竜宮童子」をはじめ昔話のなかにも多くみられ、富や宝は海の彼方からもたらされるという信仰がその根底に流れている。
(岩井 洋)
國學院大學日本文化研究所「〔縮刷版〕神道辞典」弘文堂 P344
2012年11月11日日曜日
「狭山池龍神の考察」
狭山池の西北隅には石垣で作られた小さな島がありその上に祠が祀られている。これは水分神社という独立した神社で、狭山池の守り神として古くから信仰の対象となってきた。
市川秀行「狭山池龍神の考察」大阪府立狭山池博物館研究報告第3巻 P35
市川秀行「狭山池龍神の考察」大阪府立狭山池博物館研究報告第3巻 P35
龍神淵祭具出土状況(上)
龍神淵遺物実測図(下)
龍神淵平断面図
龍神淵航空写真(上)
龍神淵出土状況(下左)
祭具出土状況(下右)
享和元(1801)年に刊行された『河内国名所図会』には西堤に祠が書かれている。「西除普請並竜神社之訳」には「尤善女竜王社義者往古より西堤ニ小祠在来之処」とあり、これは龍神祠であると思われる。ここで問題となるのはこの祠がいつ建立されたかである。享保年間末期に作成された「狭山池惣絵図」は狭山池周辺の様子を詳細に描く絵図であり、享保15(1730)年4月に狭山藩下屋敷内に勧請された狭山堤神社なども記載されている。西堤に龍神が祭祀されておれば狭山池と深い関係をもつものだけにこの絵図には当然記載されるはずであるが、その描写はない。したがって西堤に龍神が最初に祭祀されたのは、享保以後、享和以前のことと思われる。
市川秀行「狭山池龍神の考察」大阪府立狭山池博物館研究報告第3巻 P40
以上のように嘉永6年にその場所を移動した龍神は、安政5・6年の西除を中心とする狭山池の大改修に際して再びその場所を移動している。狭山池のすぐ西側にある池之原村の庄屋の記録である「中林家日記」には西除改修と龍神について次のように記されている。「安政五午年 狭山池西除ヶ十月中旬より取懸り翌春四月迄懸り、凡銀高弐百貫目斗入用懸り申候、右普請ニ付、池之中江竜神淵を掘、石垣築、御社建、鳥居立、誠ニ結構相成、西之堤ニ桜もみし松杉之木植並へ申候」この時に池中に石垣を築いて島を作り、淵を掘ったことがうかがえる。
市川秀行「狭山池龍神の考察」大阪府立狭山池博物館研究報告第3巻 P41
龍神祠のような小祠は明治以後、政府の方針もあって他社に合祀されたものが多い。延喜式神明帳にその名が記載された古社である狭山堤神社でさえ、明治42(1909)年に狭山神社の境内に合祀されている。しかしながら龍神社については水下村からの強い信仰があったためであろうか、合祀などの措置がとられることなく、今日も独立した神社として祭祀が行われている。現在ではかつてのようなにぎやかな祭礼としての性格は失われているものの、毎年新暦の6月1日には狭山池土地改良区を中心とした関係者があつまって、龍神祭が行われている。
市川秀行「狭山池龍神の考察」大阪府立狭山池博物館研究報告第3巻 P46
2012年11月10日土曜日
美具久留御魂神社
富田林市にも粟ヶ池という大きな溜池があり、その近くにも神社があるので行ってみました。
粟ヶ池
美具久留御魂神社(旧入口)
美具久留御魂神社(拝殿)
美具久留御魂神社(本殿)
美具久留御魂神社略記
社伝等によれば、崇神天皇の時代、この地の森からしばしば大蛇が現れて農民を悩ましたので、天皇が行幸して「大国主の荒御魂が暴れているので、お祀りするのが良い」と仰られて祀るようになったのが起源とされている。
ちなみに、「美具久留御魂」(みぐくるみたま)とは「水泳御魂」(みくくるみたま)のことで、「山河を渡ってきた和邇神(龍神)」という意味とのこと。
恐らく、水源でもある神体山が大蛇として信仰されていて、大和朝廷の神祇制度に組み込まれる中で、その神が「大国主」と同一視されるようになったと推測されます。
そういう意味では、山の神=川・水の神=大蛇というのが、日本の龍神の原形なのでしょう。
ラベル:
神社
2012年11月5日月曜日
龍泉寺の伝説
昔、富田林のはずれの山の上に、古い池があってな。その池に悪い龍が住みついて、村人をおそったり、家畜を喰い殺したり、木をなぎたおしたりして村に被害を与えていたんやて。
そこで、時の大臣・蘇我馬子は、池のはたにお寺を建てて、村人の被害を救おうと心に誓い仏様に祈りつづけたんや。七日間、龍に呪いをかけ、祈りつづけて。龍を追い出そうとした。すると急に池の水が波立ち、空がかきくもり、のたうつ龍があらわれて、「われは、仏法に勝つ事あたわず。今よりここを立ち去ろうぞ。」
と苦しそうなうなり声を残し、地ひびきをたてて、空高く飛び去ってしもうたんやて。
ところが、そのあと池の水が干上がってしまい、付近の井戸にも水が湧かずついに村もおとろえてしもうたんや。
何年かたったある日、この村に、弘法大師がおとずれて、道にへたりこんでいる老人に、
「どうか、のどが乾いたので水を一杯下さらんか」
と、いうたところ、
「水を差し上げたいのはやまやまやが、あっちの井戸も、こっちの井戸も、水が湧かず困っていますのや」
と言うたので、大師がわけをたずねると、その老人は、みるみる牛頭天王の姿に変わり、
「大師よ、しばらくこの地にとどまり霊地を興せ。われもまた汝を助けよう。我はこの地の地主、牛頭天王なり。汝の来るを待つ事久し」
と言うと、大風が吹きサッと消えてしもうた。
大師は、池に向かって毎日毎日一生けんめい祈られたんや。すると七日目の夜、急に雨が瀧のように降り、山鳴りがして龍王があらわれた。
夜も明けると雨は止み、池に清水が満々と満ちていた。そして村の井戸にも水が湧くようになり、村をうるおしたんや。大師は、この地に牛頭天王を村の鎮守としてまつられた。
やがて、池のはたには、お寺やお堂が建てられ、龍泉寺という名がつけられたそうな。
注 龍泉寺は、旧東条村大字龍泉寺にある。
出典:富田林の民話・総集編 p212-213
龍の女
神山町にある黒子池なあ、あの池は九郎五郎池ちゅうて貴志のあたりまでのびてたんや。それが黒五郎池となり、それから黒子池となってだんだん小そうなったんや。昔はそりゃ大っきな曲がりくねった池で、百もの谷から出来てたそうや。
いつのころかしらんけど、旅の僧がこの池をじーっと見つめて、
「早うひと谷埋めんと、ここには龍が棲みつきますぞ。ひょっといたらもういてるかもしれん」
そうつぶやくと、どこへとものう行かはったんやて。これを聞いて富田の里では、このまんま池を残そうやないかという袋屋茂右衛門などもいてたが、早よう埋めて九十九谷にしてしまえという人の勢が強く、とうとう一つの谷を埋めてもうたんや。
雨のじとじと降るむし暑い晩やった。茂右衛門の店先に小娘がしょんぼり立ってるのや。番頭がどないしたんやと聞くと、この袋屋で働きたいと言うんやがな。
娘の名は「おたつ」というたが、身寄りも無いんで、五年もの間一日も休まず陰日なたのう、よう働きよった。それに一年たつごとに背も髪も伸びて、ハッとするほど美しい一人前の女になりよった。ほんで茂右衛門は、おたつを嫁に迎えたんや。
袋屋で働いていた娘らは、
「おたつの髪は、切ると血が出ますのや」
「血ィ出るだけやおまへん、生きてるみたいに髪の毛が動きまんのやわ」
と、茂右衛門や番頭にまで告げ口したが、
「身寄りのないおたつが玉の輿に乗ったんで、へんねししてるんやがな」
「あんだけつやつやした長い髪をしてるんや、なんなと言われてもしよおまへんわな」
と、笑うて取り合わんかった。何を言われても、茂右衛門とおたつは人も羨む仲のええ夫婦やった。
三人目のややが生まれて、おたつの床上げの日のこっちゃ。風呂上りのぐっしょりぬれた髪をたらして、ややに乳をふくませたまま、うつら、うつらしてるおたつの部屋へ、茂右衛門が入って来よった。ほんで、はだけた胸の乳の脇に、青いウロコのようなものがキラッと光ったのをみてしもうたんやがな。
「それ、何やいな」
何気のう聞いたんやが、目ェさましたおたつは真っ青になりよった。ほんでから、ややを置いたままおらんようになってもうたんや。
おたつのことがあきらめきれん茂右衛門は、乳ほしさに泣くややを抱いてあっちゃの山、こっちゃの池と探し回ったが見つからへんねん。とうとう九郎五郎池のところまでやって来よった。
「あんなに幸せやったのに、なんで身ィかくさんならんのや。このややが可愛いないんか。乳ほしさに泣くこの子の声が聞こえへんのか!」
男泣きする茂右衛門の声は、鬼でももらい泣きするほどやったそうや。
その時、風もないのに池の水が波立ち、うずを巻きはじめたんや。ほんでからそのうずの真ん中に、おたつの姿が浮かび上ったんやて。ほんで岸に近づくとややを抱き、乳をふくませながら言うたんや。
「あんさんや子どもらを捨てて、九郎五郎池に身を沈めたんは、決して人に見せてはならん、あのウロコを見られてしもうたからですのや。髪の毛が長うて、切ると血潮がほとばしるのも、わてが龍の化身やからですねん。この谷がもうひと谷あればわても生きながらえますが、今となってはかないまへん。これっきり忘れとくなはれ」
そう言うと、黒髪を水に乱して振り立てながら、うずを巻いて沈んでいきよった。
茂右衛門はややを抱き、息をのんで立ちつくしとったそうや。
注 黒子池は百谷に及んでいたが、龍のすみかとなるのを恐れて一つの谷を埋め山林にし、九十九谷にしたという。
「もうひと谷あれば百谷」ということから、毛人谷(もうひとたに)→毛人谷(えびだに)との地名になったとも伝えられている。
出典:富田林の民話・総集編 p101-103
糸屋の娘
むかしのこっちゃ。
このあたりの村人らは、綿から糸をつむいで布を織ってくらしていたんや。
この村にな、糸屋の藤兵衛ちゅうもんがおって、まあ働きもんやったさかいに店はよう繁盛してたわ。
けんどたった一つ悩みがあってな、それが子宝に恵まれへんのやがな。
藤兵衛夫婦は、九郎五郎池の近くにあるお宮さんに、そらもう毎日毎日お参りしてな、
「どうぞわしら夫婦に子どもを授けておくんなはれ」と祈ったんや。
ところがや、なーんぼたっても子どもは授からへん。藤兵衛はとうとうあきらめてしもうてな、糸屋の仕事に精だして働くことにしたんや。
そんなある日や、藤兵衛の店の前で子どもの泣く声がするやないか。あわてて出てみると着物をびしょびしょにぬらした女の子が一人しょんぼり立っているがな。
「これはひょっとしたら神さんがわしら夫婦をふびんに思うて子どもを授けてくらはったにちがいないで」
藤兵衛は喜んで娘を育てることにした。お絹という名をつけてな、それはもう目に入れても痛うないほどかわいがったそうや。
お絹はきりょうよしで気だてもよかったさかい、村の若い衆が、ぎょうさん婿にしてほしい言うてきたがな。なーんぼ言うてもお絹は首をふるばかり。
「若い娘がいつまでも一人でおるて、そりゃどういうこっちゃ」
藤兵衛はきつう聞いたんや。するとお絹はかんねんしたか、
「長いあいだ娘と思いかわいがっていただきましたが、私は九郎五郎池にすんでいた大蛇なのです。だれのお嫁さんになることもできないのです。どうか私をあの池に返して下さい」
と泣きくずれたんや。するとや、みてるまにお絹の姿は大蛇に変わりよった。藤兵衛夫婦はびっくりぎょうてん、腰をぬかしてしもうたがな。
「今まで我が娘と思うてここまで大っきしてきたのに・・・・」
と泣く泣く大蛇を池に帰してやったんや。
(注) 九郎五郎池は「けあぱる」の裏にある。
出典:富田林民話・総集編 p25-26
ラベル:
民話
場所:
日本, けあぱる(バス)(大阪)
蛇になったお芳
むかしのこっちゃ。
富田林に「茂平どん」と呼ばれる金持ちがおったんや。
一人娘のお芳は村一番のきりょうよしやさかい、婿入りしたいという縁談話はぎょうさんあったが、隣村の旧家の息子金作を養子に迎えたんや。
二人はそりゃ仲のええ夫婦やったが、ある年の盆踊りの夜、金作がお君という娘に一目惚れしてからややこしゅうなったんやがな。
お君に心を移した金作は、お芳の止めるのもふり切って、お君のもとへ通うようになったんや。心配した茂平どんは金作を呼びつけて聞きよった。
『どうしてお前はお芳を嫌うのや。あんなお君のどこがええんや。お芳はお前を慕うとるのに』
『すんまへん』金作は泣いて詫びたんや。
『けどお芳といるとなんやしめつけられるようで、苦しいてたまりまへん。
今さら実家へも帰られへんし、この家に住めんと思うてますのや。家を出てお君と暮らしますよって、かんにんしておくなはれ』
金作が家を出た後、残されたお芳は、
『くやしい、に く い ・・・』
と、声をからして泣き叫び、手当たりしだい着物でも何でも引き裂くんや。茂平どんも手ェつけられへん。とうとうある晩、みんなが目ェ離したすきに、家をとび出してもうたんや。
『西山の黒子池に身を投げて、大蛇となって金作とお君にとり憑いてやるんや』
そう言うて池の中へ身を投げよった。
ある晩、金作はひやこものが、巻きつく気配で目が覚めてん。夢やないんや。ぬるっとひやこいもんが、ぞろリ、ぞろりと腹から首へと這い上がるんやがな。
『ひゃ~、助けてくれ~、蛇や、蛇や』
お君が灯りをつけると、蛇なんぞどこにもいてへん。けど眠れん夜の続く金作は骸骨のような体になって、息絶えたんや。ほんでからお君の方も、金作と同じようにうなされもって死んだそうや。
やがて一昔も過ぎたころ、若い衆の間で、
昔、富田林の茂平どんの娘
蛇になって男を殺した。
富田林の茂平どんの娘
髪が長うなる、じゃけんとなって
今は黒子の池の主
という唄が歌われるようになったというこっちゃ。
注:黒子池は、市内の神山町内にある。
出典:富田林の民話・総集編 p17-18
富田林に「茂平どん」と呼ばれる金持ちがおったんや。
一人娘のお芳は村一番のきりょうよしやさかい、婿入りしたいという縁談話はぎょうさんあったが、隣村の旧家の息子金作を養子に迎えたんや。
二人はそりゃ仲のええ夫婦やったが、ある年の盆踊りの夜、金作がお君という娘に一目惚れしてからややこしゅうなったんやがな。
お君に心を移した金作は、お芳の止めるのもふり切って、お君のもとへ通うようになったんや。心配した茂平どんは金作を呼びつけて聞きよった。
『どうしてお前はお芳を嫌うのや。あんなお君のどこがええんや。お芳はお前を慕うとるのに』
『すんまへん』金作は泣いて詫びたんや。
『けどお芳といるとなんやしめつけられるようで、苦しいてたまりまへん。
今さら実家へも帰られへんし、この家に住めんと思うてますのや。家を出てお君と暮らしますよって、かんにんしておくなはれ』
金作が家を出た後、残されたお芳は、
『くやしい、に く い ・・・』
と、声をからして泣き叫び、手当たりしだい着物でも何でも引き裂くんや。茂平どんも手ェつけられへん。とうとうある晩、みんなが目ェ離したすきに、家をとび出してもうたんや。
『西山の黒子池に身を投げて、大蛇となって金作とお君にとり憑いてやるんや』
そう言うて池の中へ身を投げよった。
ある晩、金作はひやこものが、巻きつく気配で目が覚めてん。夢やないんや。ぬるっとひやこいもんが、ぞろリ、ぞろりと腹から首へと這い上がるんやがな。
『ひゃ~、助けてくれ~、蛇や、蛇や』
お君が灯りをつけると、蛇なんぞどこにもいてへん。けど眠れん夜の続く金作は骸骨のような体になって、息絶えたんや。ほんでからお君の方も、金作と同じようにうなされもって死んだそうや。
やがて一昔も過ぎたころ、若い衆の間で、
昔、富田林の茂平どんの娘
蛇になって男を殺した。
富田林の茂平どんの娘
髪が長うなる、じゃけんとなって
今は黒子の池の主
という唄が歌われるようになったというこっちゃ。
注:黒子池は、市内の神山町内にある。
出典:富田林の民話・総集編 p17-18
2012年11月4日日曜日
大蛇の鱗三枚:狭山池に絡まる話
種屋五兵衛と言うお爺さんが、ある日狭山池の堤を急いでいると、堤の松並木の陰から、絵から抜け出したかと思う様な美しい娘がすっくと五兵衛の行手に姿を現した。
五兵衛は呆気に取られて立ち止まると、娘はしとやかに腰をかがめて、
「誠に済みませぬがこの池の中にある万能鍬を拾って下さる訳には参りますまいか」
と頼みこんだ。
余り出し抜けの事なので、爺さんはびっくりして、その訳を聞くと娘は、
「実は妾はこの池に長らく住んでいるものでございますが、鍬の金気がありましては、安心して住んで居ることが出来ませぬ。御礼は必ずしますから、何卒助けると思って鍬を取り出して下さい」
と事情を述べた。
五兵衛爺さんは正直でお人好であったから、早速取ってやることにしたが、満々たる水があっては取りにくいと言うと、娘はその事なら心配はないと言って、身を躍らせて池に入ると、不思議なことに池の水は忽ち干上がってしまった。
そこで五兵衛爺さんは池へ入って鍬を取り出し堤へ上ると、池は又元の如く水が一杯になった。
そして先刻の娘が再び姿を現し、厚く礼を述べ猶お礼の印だと言って、金色に輝く大蛇の鱗を三枚渡すと、そのままぱっと池の中へ飛び込んでしまった。
五兵衛はその後、旱天で困るときはこの鱗を取り出して祈ると忽ち大雨が降るので、村人達から重宝がられたと言う。
松本壮吉「伝説の河内」歴史図書社 80頁~81頁
狭山池の大蛇:狭山池弁天祠の話
昔、夫婦の大蛇が狭山村の狭山池と富田林の黒ヶ池に別れて棲んでいた。
狭山池の方は雌で黒ヶ池の方は雄の蛇であったが、夜毎この夫婦の大蛇は往来して会瀬を楽しむので、これが為この大蛇の通り筋になる田畑はすっかり荒らされ、又折悪くそれに出会った人や牛馬は、毎夜の様に害されるので村人達は全く困っていた。
けれど何と言っても祟り恐ろしい大蛇の事で如何することも出来ず、その日々を、泣きの涙で送り暮らしていた。
しかし、何時までも、このままに打ちすて置いては、村人は皆大蛇の餌食になってしまうと言う所から、ある日、村の主だった人達が庄屋の家に集まり、その対策に評定をした。
血気の若者達は大蛇を退治してしまえと強い意見を吐いたが、老人達は後の祟りが恐ろしいとて、なかなか承知せず議論は紛糾して容易に纏まらなかった。
しかし、結局は老人の意見が勝って、神様にお願いをして大蛇を池の中に封じて貰う事に意見が一致した。
そこで数日を経て鎮守の神主と、庄屋とその他村の主だった人達2、3名は、何れも白装束に身を清めて丑三つ時に池の側へ行って、
「神様、何卒村人を助けると思って竜神が池を出られぬ様にして下さい。其の代りお社を設けてお祀りいたします」
と祈願をしたが、神もこれを哀れと思われたものか、それからというものは全く大蛇は池を出なくなり、村人達は非常に喜んで池の中へ祠を建てて龍神を祀り供物を絶やさなかったと言う。
南河内郡狭山村の狭山池の中にある弁財天祠即ちこれで同池では雑魚取の年中行事あり、垂仁天皇の御代に垂仁天皇の「農天下大本也」の御遺勅に基づいて印色之入日子命が築いたもので、おかめ石という行基が改築の際用いた石樋が残って居り、今日でもこれに触れると人命に関すると恐れられている。
松本壮吉「伝説の河内」歴史図書社 76頁~78頁
2012年11月3日土曜日
狭山神社
大阪府神社庁のHPで調べると、龍神社の管理は狭山神社でしているとのことだったので、散歩がてらにフィールドワーク。
参拝してから、社務所で神社の略記を貰い、宮司さんに簡単に話を聞いた。
以下は、宮司さんに教えて貰った内容。
・狭山池には夫婦の竜神が住む。
・昔は、夏場でも水が枯れない「竜王ヶ淵」と呼ばれる深い場所があり、そこが住処とされた。
・約10年前の大改修の時、その部分の底から銅線でまかれた壺がでてきたので、自分がお祓いに呼ばれた。
・「鎮物」(しずめもの)と思われたので、新たに埋めなおし、竜神を祀る祠が作られた。
(その際、博物館の学者が壺を持っていこうとしたが、狭山池の水利組合が取り返した)
・昔から雨を降らせる竜神と言い伝えられている。
・特に、由来や由緒を伝える文書は残っていない。
・ちなみに、最初に狭山池を作った責任者も「堤神社」という狭山境内の摂社として祀られている。
狭山神社本殿
摂社:堤神社
狭山神社由緒略記
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神社
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